冥林堂

Midnight Dreamer

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「はい、トビオちゃん」
 そう言って、及川さんは俺の頬にペットボトルをピトリとつけた。冷たさに驚いて、シーツの中で体を竦める。重い瞼をゆっくり開けると、及川さんが笑うのが見えた。
 上半身裸のまま、及川さんは俺の脇に腰を下ろした。ベッドが鈍く波打って、その上に転がっていた俺はもそもそ腕を動かす。
 及川さんが差し出しているペットボトルを受け取って、俺は軽く体を起こした。部屋の空気は冷えきっていて、俺はブルリと身震いをした。
「大丈夫? 寒くない?」
 ベッドサイドに転がっていたリモコンを手にとって、及川さんが空調を緩め始めた。そのお蔭で、俺は感じていた冷たさを我慢しなくて良くなった。
 まだ七月だというのに、エアコンが無いと俺たちはマトモに抱き合うこともできない。東京の夏を甘く見ていた。空気そのものがベタついていて、呼吸まで重く感じられる。
 体を動かすのは億劫だったけれど、背中がシーツから浮くと汗が剥がれて気持ちよかった。軽くボトルのキャップを捻り、ミネラルウォーターを喉に流す。ごくごくと喉を鳴らす俺の隣で、プシュ、と、気持ちのいい音がした。見てみると、及川さんが俺の買った缶ビールを片手で開けたところだった。
「及川さん、それ…」
「お祝いだよ。十二時過ぎたから」
「え…!?」
俺は驚いて、携帯を探して枕元に手を伸ばした。充電器に繋がれていた携帯のロックを解くと、日付はいつの間にか二十日に変わってしまっていた。
「あーもう! …クッソ…」
 舌打ちをして顔を上げると、及川さんは口唇についた泡を舐め取りながら、ニヤニヤ笑って俺のことを見下ろしていた。
「今年もダメだったね」
「及川さんのせいじゃないスか」
「いいじゃない、気持ちよかったでショ?」
 パンツ一丁でビールを嗜む及川さんは、相変わらず笑いながら俺のことを見つめていた。俺はベッドの上であぐらをかいて、ペットボトルを握りしめて、ふう、と小さなため息をついた。
 汗が引いて、乾いた素肌がシーツに触れて気持ちがいい。なのに及川さんの視線を感じて、顔が熱くなってくる。
 そっちを見ると、目が合ってしまうのはわかっていた。だから俺は俯いたまま、照れ臭さを奥歯で噛んで、口唇をまごつかせていた。
「……お誕生日、おめでとうございます」
「ハイ、ありがと」
 及川さんの口唇が綻んで、それを見つけた俺の胸がどきりと高鳴った。女の子じゃあるまいし、及川さんとはもう長い付き合いなのだから、いちいち反応しなくたっていいはずだ。だけど、及川さんと付き合うようになってから俺の心臓はドキドキしっぱなしで、及川さんが嬉しそうに俺の方を見ているだけで、頬が縮れてしまいそうになる。
 本当は、零時になった瞬間に『おめでとう』を言うはずだった。及川さんが毎年俺にしてくれているように。
 だけど今年も、ダメだった。これから一年間、今日のことで嫌味を言われ続けるのかと思うと、歯痒さが湧き起こる。
「ぷっは~、美味い!」
「冷やしといてよかったですね」
「それもあるけど、やっぱ人の金で飲むビールは最高だね」
 眉を寄せる俺の髪をくしゃくしゃとかき乱し、及川さんは俺の頭を抱き寄せた。二人の額がこつりと重なる。俺は開けたばかりの水をこぼしそうになって、両腕を開いたまま及川さんに抱きとめられた。
「…おめでとう、ございます」
 もう一度、俺は言った。こうして伝えられることは、特別なことだと思えたから。
「ありがと、飛雄」
 及川さんの息が耳に触れる。すこし、アルコールの香りがする。
 静かに、邪魔をしないように、ペットボトルの蓋を閉める。及川さんは俺の頭をポンポン叩いて、ふう、と、気持ちよさそうにため息をついた。
 及川さんは、俺より二年先輩だ。俺より早く東京の大学に出て、一人暮らしをしていた。
 俺が上京したタイミングが、及川さんのアパートの更新と重なった。家探しを手伝ってくれた及川さんが俺と一緒に住むことになって、そうして俺たちはようやく、『お付き合い』を開始したのだ。
「十二月も、こうして二人でいれたらいいね」
 及川さんが、そっと呟く。恥ずかしくて、照れくさかった。昔はもっと意地悪だったと思うのに、最近の及川さんは素直に俺を喜ばせてくる。
「ちゃんと、予定空けとくから」
 さっきまでのセックスの疲労感は、少し和らいでいた。頬がなんだかくすぐったい。ベッドの上にペットボトルを転がして、俺は小さく頷くと、及川さんの腰のあたりにそっと手を添えてみた。
 及川さんが、俺の額に、ちゅ、と軽く吸いついた。随分機嫌がいいようだ。飲んだせいか、俺と一緒にいるからだろうか──。
「どうですか?」
「どうってなにが?」
 自惚れを悟られないように、俺は、ぎゅ、とシーツを握りしめた。そうして軽く顔を上げて、俺は言う。
「二十一になった感想」
 及川さんはぱちりと目を瞬かせて俺のことを凝視した。どうやら、そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。
「うーん、去年は色々思ったけど、今年はそうでもないかなー」
 二十一も二十もそんなに変わらないからね、と、及川さんは笑って言った。右手で握っていた缶に再び口を付けながら。
「…それ、美味しいですか?」
「飛雄はダメだよ」
 う、と、俺は声を詰まらせた。見てみると、及川さんが缶を揺らして、得意気に俺を見下ろしている。俺がなにを考えていたか、お見通しとでも言うように。
「俺はもう二十一だけど、飛雄はまだ十八なんだから」
 俺は口唇を尖らせて、及川さんを、じと、と睨んだ。
「及川さんも飲んでたくせに」
「俺はいいの。お前はダーメ」
 そう言われると、流石に拗ねたくもなってくる。口唇を尖らせたまま、俺は続けた。
「前は飲ませてくれたじゃないスか」
 別に、酒が特別好きだというわけじゃない。だけど、弱くない方だとも思う。なのにどうして、及川さんは俺に飲ませようとしないのか。
「あの後、俺がどれだけ大変だったと思ってるの」
 俺はそんなに、迷惑をかけたのだろうか。最後に一緒に飲んだのは、引っ越しが終わって一段落ついた時だったと思う。
 岩泉さんや黒尾さん──、引っ越しに付き合わせた知り合いと一緒に、宅飲みをしたあの日がもう懐かしい。
「それに、今日試験でショ。今から飲むと残っちゃうよ」
 及川さんはそう言って、俺に体重をかけてきた。後ろに倒れた俺の上に、及川さんが被さってきた。
「うっ、ふ……及川さんだって、テストあるんじゃないんですか」
 俺たちは今、前期試験の真っ最中。スポーツ推薦で入れたとはいえ、他の学生と同じようにテストも課題もやってくる。
「俺はいいの。誕生日だから」
 なんだよ、それ。ズルいとは思ったけれど、今更言っても仕方がない。
「及川さん」
 ため息をついて、息を吸って、小さな声で呼んでみた。
 不思議なもの、だと思った。心地よい重さを感じながら、明日のことやこの先のことを、話せるようになるなんて。
「なに?」
 嬉しい、と、幸せだ、と、思ってもいいのだろうか。これまで想像もしていなかったこの状況を、喜んでしまってもいいのだろうか。
 目を開けて及川さんを見下ろすと、及川さんは優しく笑って俺の前髪を梳き上げた。それが心地よかったから、さっきまでのイライラも俺はすっかり忘れてしまった。
「…三限終わったら、いつものトコで待ってますから」
 体から力を抜くと、背中がシーツに沈んでいく。のしかかってくる重さは、苦にはならない。苦しいどころか、及川さんに撫でられて心地よさが広がっていく。
「でも、ホントにいいんですか? せっかく誕生日なんだから、どっか美味い店行ったほうが──」
「せっかく家賃半分で済んでんだから、無駄遣いしないの。それに──」
 及川さんは、缶を握ったままだった。俺の上に体を預けて、鼻歌まで口ずさんでいる。
「トビオちゃんの手料理食えるのなんて、最高の贅沢じゃない」
 俺たちはこれまで、プライドとか性別とか色んなモノが邪魔をして、素直になれていなかった。知らない土地、制服を脱いだ開放感──。色んな状況に助けられて、俺たちはようやく色んなことを受け入れる覚悟ができた。
「好きだよ、飛雄」
 及川さんは、囁くように俺の耳元に接吻けた。俺は思わず身を震わせる。及川さんの言葉も体温も、俺をドキドキさせるから。
「トビオちゃん、だぁい好き」
 ぞくぞくと、俺の背筋がざわめいた。手を握らずにいられなくて、ぎゅ、とシーツに指を絡めた。
「ふ…、ンン……ッ」
 やっぱり、及川さんは意地悪だ。俺が言われている分だけ、伝えたいと思っているのに、俺がそれを言うより先に俺の口唇を塞いでしまう。
 瞼の裏がきらきら光って、胸からなにかがサラサラ溶け出す。それが全身に行き渡って、体と心が楽になる。
 今まで言ってこなかった分、口にしたくて仕方がない。きっと、及川さんもそうなのだろう。離れがたい口唇をぺろりと舐めて、及川さんが顔を上げた。
「どうですか、二十一歳の及川さんは?」
 濡らした俺の口唇を、及川さんが、ちゅ、と吸う。わざわざ敬語を使ってくるから、俺はなんだか恥ずかしくなった。
「酒臭いです」
「お前ね、もっと他に言うこと無いの?」
 苦笑を洩らし、及川さんは言った。あまりに距離が近いから、思わず俺は視線を逸らした。
 ベッドに寝そべる俺の上には、薄いシーツがかかっている。足の間で及川さんが、ごそ、と、膝を動かした。
 ベッドの脇、携帯を置いてあるその隣に持っていた缶を置こうとする。ふと及川さんが手を止めて、俺はそれを不思議に思った。
「及川さん…?」
 俺はもっと、キスをしたいと思っていた。キスだけじゃなくて、その続きも──。
 さっきもシたばかりだというのに、及川さんと付き合うようになってから、歯止めがどんどん緩くなっている。でもきっと、それは及川さんもおんなじだと思っていた。
「トビオちゃん、酒が入るとすぐに顔赤くなるよね」
 急に、なんの話をし始めるんだ。俺は驚いて、目を瞠って及川さんを見上げていた。
「なりますけど、別に酔ってるわけじゃ…」
「目もトロンてするし、反応もニブくなるし」
 前にみんなで飲んだ時、日向にバカにされたことがある。赤鬼だとか閻魔様だとか──、あの野郎、自分だって顔真っ赤にして笑い転げてたくせに。
 月島は顔色も変えずに飲み続けてたし、菅原さんも結構強くて驚いた。けど、それがなんだっていうんだ。
「いつも目つき悪い分、なんかすっごい、ヤらしい顔に見えるんだよね」
 そんな風に見られてたなんて、思ってもみなかった。だから俺は驚いて、思わず息を詰まらせた。
「そんな顔、俺以外の奴に見せちゃダメでショ」
 自分がどんな顔をしてるかなんて、自分じゃよくわからない。俺はいつも、そんな下品なツラをしてたのだろうか。
 俺の疑問に応えるように、及川さんはにっこり笑うと、ぐい、と、ビールの缶を煽った。そうして俺の上に被さって、俺に息つく暇も与えず、口唇を押しつけてきた。
「ぉい川さ……っ、ふ……!?」
 重ねた口唇は濡れていて、そこから冷たい液体が俺の方へと伝い落ちる。俺はビックリしてしまって、だけど身動きもできなくて。及川さんが送りこんでくるビールで舌を濡らしていた。
「ふ……、ぅン──ッ」
 噎せてしまわないように、俺はこくりと喉を鳴らす。温まった炭酸が俺の喉から腹の奥へと落ちていく。
 口の中を及川さんの舌がくすぐってくるから、俺の息は浮ついた。はぁ、と洩らした俺の呼吸には、及川さんのものと同じ麦の香りが染みついていた。
「ホントは、俺にもあんまり見せないで欲しいんだよね」
 ぺろぺろと、及川さんが俺の舌を舐めてきた。体の奥に、ジン、と響いて、肢がなんだかムズムズして、腿を擦りたくなってくる。
「我慢できなくなるからさ」
 俺の下唇を、きゅ、と噛んで、そのまま、ちゅる、と吸い上げる。びく、と、つま先が揺れてしまった。及川さんは軽く笑って、俺の舌に舌で触れた。
 ひどい人、だとも思うし、勝手な人、だとも思う。言われていることがじゃない。及川さんに触れられる度、俺は及川さんを好きになる。
 もう十分、好きになってる自覚はあるのに、もっともっと好きになって。これ以上ないくらいなのに、さっきまでより今のがもっと好きになっている自信がある。
 俺はどれだけ、及川さんを好きになればいいんだろう。来年はもっと、好きになってるに違いない。
 そうやってこれからずっと、歳を重ねていくのだろうか。そう思うと興奮して、胸と体が騒ぎ始める。
「試験、だから…、飲んじゃ、ダメだったんじゃないですか…?」
 口唇も舌も痺れた頃、ようやく及川さんが顔を上げる。声を乱しながら、俺は尋ねた。恥ずかしさを誤魔化したくて、だけど、できたかどうかはわからない。
「だから、酒抜かないとね」
 いたずらめいた笑みを浮かべて、及川さんは言った。俺の首筋に、顎に、鎖骨に、舐めるように吸いつきながら。
「ん…ッ、ぅ…及川、さん…ッ」
 明日がテストだからといって、夜はまだまだ長いのだし互いの体力に余力があるのはわかっている。俺だって及川さんが欲しくて仕方なくなっている。だけどどうしても、言っておかなきゃいけない気がして、及川さんの肩を掴んだ。
「なに? 『やめて』だったら聞かないよ」
「違いますよ、そうじゃ、なくて…」
 及川さんが放り出した空き缶が、ベッドの下にカラリと落ちる。濡れた口唇を拭おうとすると、頬が熱くなってることに気がついた。
「及川さん…、好き、です…」
 俺の両脇に手をついた及川さんが、目を丸くする。天井を背中にしながら、俺のことを凝視している。
 そんなに、俺を見ないで欲しい。恥ずかしくて死にそうだ。
 ぴくりと震えた及川さんの口唇が、ゆっくりと笑みを刻む。ぎゅ、と結んだ俺の手を及川さんが拾い上げて、ちゅ、とそこにキスをしながら、小さな声で呟いた。
「うん、知ってる」
 掌の汗を気づかれないか、俺は少し心配だった。そんなことなど気にもしないで、及川さんは俺の手を取る。
「ありがとう、飛雄」
 及川さんの声は、俺にしか聞こえない。二人だけの部屋で、俺だけに届く声で及川さんが囁いた。
 バイトもしてない学生の分際で、俺にはプレゼントなんて用意できない。せいぜい、缶ビールを用意して夕飯を豪華に作るくらいだ。
 それなのに、及川さんは俺が与えられるモノ以上に、俺に与えてくれるんだ。好き、も、大好き、も、気持ちいい、も、全部、全部──。
 こんなことをされ続けたら、俺はもっと、及川さんを好きになる。今よりもっと、これからずっと、来年も、きっと──、きっと。

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