冥林堂

新しい朝が来た。

「ふぁ~い」
 締まりの緩い口許を指摘され、及川は、間の抜けた声を出した。周りがくすくすと笑う中、頭を掻いて舌を見せた及川に、仕方ない奴だ、と、教師もつられて笑みをこぼした。
 始業式当日、ぽかぽかとした陽気。教室の中に、カリカリとした空気はない。新しい担任、新しいクラスメイトに、浮ついた心地でいる。
「きりーつ。きょーつけー」
 号令に合わせて、ありがとうございました、と礼をすると、教室は途端に騒がしくなった。ホームルームを終えて、帰り支度を始める者もいれば、即座に部屋を飛び出す者もいる。
 そんなに生き急いで、どうしようと言うのだろう。腹の中でバカにしながら、今一度、あくびを洩らした及川の後ろから、知った顔が現れた。
「初日から、なにやってんだよ」
 及川の顔は狭くはない。学年中、学校中の色んな人間が及川を知っていたし、そして及川も、彼らと仲良く渡り合っていたつもりだった。
「昨日、なかなか寝らんなくってさ~」
 顔見知りのクラスメイトに揶揄われ、及川は立ち上がった。注目されること自体に悪い気はしないが、このまま長居をして、容赦の無い幼馴染から、眠気覚まし以上の攻撃を喰らいたくはない。
「なぁ。一年の教室、見に行こうぜ」
 及川の顔を覗きこんで、彼は言った。隣に立っていいとは言っていないのに、図々しい男だ。
「えー、なんで?」
 気のない風を露骨に示し、及川は言った。歩き出す及川に続いて教室を出、並んで廊下を歩いていく。
「可愛い子入ってるかもしれねぇじゃん」
「ヤダー、ロリコン? つい最近までランドセル背負ってた子とか、犯罪でショ」
 そう言って揶揄うと、相手は顔を赤くして、年下の良さについて語り始めた。彼曰く、新入生の女子には、同年齢にはない可能性があるのだという。
 まだなにも知らない相手に、自分にとって都合の良い様々なことを教えこむ。そうして従順に育てあげれば、後から揉めることもない。
「及川」
 廊下の向こうに、知った顔が立っていた。睨みつけてくる相手の方へと駈け出して、及川は、同行していたクラスメイトに手を振った。
「じゃ、頑張ってね」
 可哀想に、彼は、あっけにとられたような顔で及川を見送っていた。及川がいればまだしも、彼一人で、なにも知らないが故に警戒心の強い一年生を手玉に取れるとは思えない。
「助かったよ、岩ちゃーん」
「なにやってんだ、さっさと行くぞ」
 肩に手を回してくる及川を嫌がりながら、岩泉は言った。彼は既に、ジャージを着ていた。てっきり部室へ行くものかと思ったら、彼は階段を通りすぎず、上へと昇ろうとする。
「行くって、どこに?」
「三階」
 当然だ、とでも言うように、岩泉は言った。及川は、目を瞬かせた。
「なにー、岩ちゃん。岩ちゃんもロリコン?」
「なに言ってんだ、新歓だろ」
 呆れたように言い返す岩泉に、ああ、と、及川は呟いた。
 さすが、勤勉なことだ。来るもの拒まず、去るもの追わずの及川と違って、岩泉の真面目さは羨ましいほどの眩しさを放っている。
「及川、岩泉」
 岩泉が、気乗りでない及川を引きずるように歩き出す。階下から呼ぶ声に、二人はそろって足を止めた。
 鬼のように厳しい生徒指導で恐れられている、ジャージ姿の体育教師だった。新学期そうそう、なにか、怒られるようなことをしただろうか。あからさまに嫌そうな顔をした及川に、彼は、思わぬ言葉を放った。
「ちょうどよかった。連れてってやってくれ。こいつ、入部したいんだってよ」
 教師の巨躯の影から、少年が顔を覗かせた。及川は、パチパチと瞬きをした。今年初めての、新入部員。既にジャージ姿でいるところを見ると、彼の情熱は普通以上だ。
「影山飛雄です。よろしくお願いします」
 物怖じしない口ぶりで、彼は言った。それが、どうにもいけ好かなかった。照れも、躊躇いもなく、睨むように見つめたまま、頭を下げる。及川が影山を見たのは、それが初めてだった。

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