非日常への扉
俺のアドレス帳に新しい連絡先が増えたのは、つい最近の話だ。もちろん、晶馬はそのことを知らない。晶馬に気づかれないように、俺は細心の注意を払っていた。
もともと、感情が表に出やすい晶馬と違って、俺は異変を悟らせない術を体得している。年中陽鞠のことか、夕飯のメニューのことしか考えてないような晶馬を、誤魔化すのなんて簡単だった。
あの日、カーテンから射し込む夕日がやけに暑かったのを覚えている。薬品の臭いが染み付いた診察室で、窓から注ぐオレンジ色の光線が、椅子に座った医者の影を浮かび上がらせていた。
「つまり……」
話し終えた医者の正面で、丸椅子に座った俺は柄にもなく興奮していた。膝の上に乗せた拳に力をこめて、乾いた口唇を震わせた。
「治るってことですか?」
「現段階では、答えはNOだ」
期待に弾んだ俺の胸に、医者の冷静な声が水を差した。ゆっくりと首を振る男に、俺は苛立ちを覚えた。
「確約はできないが、今言ったように、病状の進行を遅らせたという海外の例がある」
飲み込んだ息が粘ついて、俺はごくりと喉を鳴らした。
「成功したとしても、タイムリミットが少し延びるだけだ。それも、誤差の範囲かもしれない」
「お願いします!!」
相手が言い切らぬうちに、俺は声をあげていた。頭を深く下げて、掌に滲んだ汗を強く握りしめていた。
結果がどうなるかはわからない、けれど、陽鞠の命が消えていくのをただただ待っているなんて、俺にはできない。
「ただの、気休めにしかならないかもしれないよ」
絶望的な死の宣告から、まだそう経っていなかった。あの時の俺にとっては、ため息混じりの医者の言葉が神の歌声にも聞こえた。
「それでもいい。陽鞠を――妹を、助けてください」
カーテンをすり抜けて、夕陽が俺の背中に落ちていた。襟足がヒリついて、耳が熱くなった。
湿った掌をスラックスに擦りつけて、俺は痛切に訴えた。それはもしかしたら、我侭だったのかもしれない。
陽鞠を喪いたくない、陽鞠に生きていてほしい。
少しでも長く、陽鞠と一緒にいたい――。偽善的で独善的な、俺の我侭だ。
瞼が痛むほど目を瞑って、祈るような気持ちで、俺は懇願していた。返答を待つ俺の耳に、細い嘆息が届いた。
「――医者は」
カラカラと音を鳴らして、廊下を滑車が走っていった。入院している患者たちに、夕飯が配られはじめる時間だった。
俺はいつのまにか、手だけではなく、背中にも、顔にも汗をかいていた。顔をあげ、息をほどく俺の喉を、じわじわと流れる一筋の汗が伝い落ちた。
「神様ではないと、前に言ったね」
夕陽を背にして、男は濃い影を背負っていた。逆光で、俺の場所からは相手の表情がよく見えなかった。
「願うだけでは、望みは叶わない。金がなければ、命は買えない」
淡々とした声で、医者は続けた。感情のこもらない、もったいぶった口振りだった。
「…………」
こいつは、なにを言っているんだ。興奮した心が急激に冷やされて、俺は焦りを覚え始めた。
「残酷だが、現実はそんなものだ」
そんなことはわかっていた。他の奴らがどうだかは知らないが、俺たちは、現実の残酷さを、これまで痛いほど味わわされてきたんだ。
困惑し、当惑し、絶望して、拒絶してしまいたくなるほど辛辣な現実。過酷な『運命』という名のしがらみに、俺は憎しみすら抱いていた。
「お願いします。長くかかるかもしれないけど、お金は必ず払います」
もう一度、俺は頭を下げた。なにもできない俺には、奥歯を噛み締めて拝み倒すしかなかったんだ。
医者の放つ沈黙が重たくて、焦れったかった。俺は緊迫した空気に蝕まれて、息ができなくなりそうだった。
今考えれば、わざとだったのかもしれない。俺の焦燥も苛立ちも、奴の思い通りだったのかもしれない。
「これまでも、不治の病にかかった患者は何人もいた」
静かな室内に、医者の声は相変わらず淡々と響いていた。襟首に掴みかかりたいのを、ぐ、と我慢して、俺は男の言葉に耳を傾けていた。
「おかしな話だが、君たちを見ていて、私も、神様とやらになってみたくなったのだよ」
布の擦れる音がした。白衣の袖が伸ばされて、男の冷えた指先が、夕陽を浴びて熱くなった俺の頬にぴとりと触れた。
俺は驚いて、びくりと肩を竦ませた。そんな風に触られるなんて思ってもみなかったからだ。
肌を縮めた俺の顎を、奴の人差し指が辿っていった。中指と薬指がそっと添えられて、親指が頬骨の上を押さえてくる。
「だから、君を呼んだんだ」
背中を曲げて、首を伸ばした医者の影が俺を包み込んだ。頬を撫でた親指が、口唇の先を押さえてきた。
分厚いレンズの奥で細められた男の目が、醜く煌めいたのを俺は見た。
卑しい男の顔を思い出して、俺は思わず、ため息を漏らした。
学校というのは便利なものだ。クラスに何十人も生徒がいるから、俺が思考に耽っていたことに、黒板を背にする教師も、周りにいる同級生たちも気に留めていない。
気がつけば、今日は一日中あの日のことを回想してしまった。納得したくないからだろうか。今更、抗ったって遅いことはわかっている。
【晶馬君に相談する前に、君に相談した方がいいだろうと思ってね】
当たり前だ。晶馬を巻き添えになんてできない。陽鞠の命の代償なら、俺一人の負担で十分だ。
真面目くさった顔をして、屈辱的な条件を提示した男の声が、新鮮な苛立ちを呼び起こす。今日一日、ろくに仕事をしなかったシャーペンを握る指に、力がこもった。
多蕗がホームルームでなにを話していたのか、よく覚えていなかった。いつのまにか皆帰り支度をはじめていて、俺もそのどさくさに紛れて席を立ち、足早に帰路についた。
誰にも話しかけていないし、誰とも目を合わせなかった。急いでいるということだけ辺りに知らしめて、俺は来たときと同じ速さで、校門をくぐった。
都心近くで、周りに学校も多いから、帰り道の人通りは多い。制服姿の女子高生に見向きもせずに、俺は制服に封印していたスマートフォンを取り出した。
未返信だったメールを呼び出して、履歴を辿り、約束の日時を確認する。この調子なら、随分早く着きそうだ。
どこかに寄って行こうか。いや、無駄なことはしたくない。
さっさと行って、さっさと終わらせよう。後がつかえているんだから。
約束の場所まで、そう離れてはいなかった。暑い陽気だったけれど、俺は歩いていくことにした。
サラリーマンやOLに紛れて、駅を背にして、信号を渡る。緑豊かな公園の脇を歩けば、強すぎる日差しもそんなに気にならない。
もうすぐ着きます、と、短いメールを打って、俺はゆったりと歩いていた。早く行こうが遅くなろうが、行くことに変わりはないのだから、少しくらい相手を待たせてしまったって構うものか。
晶馬は、ちゃんと陽鞠の喜ぶ雑誌を見つけられるだろうか。若い娘向けのおしゃれや、女優のインタビューや、モデルのファッションが紹介されているものものがいい。
女性向けの雑誌は何種類もあるけれど、シックスティーンあたりが無難だろう。別に、阿佐美への思い入れなんてこれっぽっちもなかったけれど。
こんなに早くなるのなら、晶馬と一緒に選んでからでもよかったかもしれない。種類が多すぎだ、と、晶馬が本屋でまごつく姿が容易に想像できた。
陽鞠は、俺がいないことを気にするだろうか。晶馬は、ちゃんとフォローをしておいてくれるだろうか。期待薄だ、と、俺は思わず苦笑を漏らした。
スポーツウェア姿の女性が、犬を連れて急ぎ足で俺とすれ違っていく。名残惜しい日常から背を向けて、俺は路地に足を踏み入れる。
車通りの多いメインストリートから少し離れると、この国最大の歓楽街が始まる。所狭しと並んだビルの中には、観光用でない宿泊施設がポツポツと並んでいる。
暫く歩いていくと、高すぎず安すぎないシティホテルがあって、俺はそこの自動扉をくぐった。近所の高校の制服姿でいる俺は、珍客だった。
フロントに立つ黒服に止められないうちに、エレベーターを目指す。待機していたそれに乗り込んで、俺は指示された階を目指した。
一線を越えるのは、俺の意思だ。奪われるのではなくて、奪わせにいくんだ。
そこには、なんの躊躇もない。それなのに俺の胸は苦しくなって、苦い気持ちが喉を焼いた。
「待っていたよ」
ドアベルを鳴らした俺を迎え入れた男は、いつもの白衣姿ではなかった。眼鏡の奥に映る瞳が、あの時と同じ、醜い色で煌いていた。